チャンスは最後まであきらめなかった者にのみ与えられる:吉本興業番組制作のMAYU

日本のお笑いが好きな人で、吉本興業を知らない者はいない。台湾人のMayuは10年前に吉本興業所属のお笑い芸人ロンドンブーツ1号2号の田村淳を知った。その時、何が何でも将来吉本興業で働くんだと心に決めたのだ。そしてその10年後の今、私たちは吉本興業東京本社でMayuのストーリーを聞いている…いったい台湾人である彼女はどのような道を歩んできたのだろう。

ロンブーファンの進撃

私が日本を好きになったきっかけは、中学校の時に日本のバラエティー番組を見てからです。高校生になり、初めて「ロンドンハーツ」という番組を見て、ロンドンブーツの田村淳を知り、私はすぐに彼のファンになりました。アイディアが豊富で、頭も良くて、新しいことにどんどんチャレンジする。それから、自分の信念を持ちながらも、周りにも気遣いができて…。そんな淳さんは他の芸人とは違うんだと私は感じました。ちょうどその頃、淳さんは後輩芸人たちとjealkbというバンドを結成し、ライブで台湾に来たことがありました。淳さんの大ファンである私はもちろん、足を運びました。もっと他の人にもこのバンドを知ってほしかったけれど、当時jealkbのことはあまり宣伝されておらず、もどかしく思った私は、台湾のレコード会社に宣伝をするよう直接電話をしてしまったほどです。それをきっかけに、自分が単なるファンとしてではなく、それ以外に淳さんのために何かできないかと考え始めるようになりました。淳さんも、jealkbも吉本興業の所属で、吉本興業が日本で最大のお笑い芸人事務所であること、jealkbの淳さん以外のメンバーはみんなバイト生活をしていることを知りました。そして、当時の私にはあまりにも身の程知らずの目標を立てたのです。日本へ行って吉本興業で働こうと。淳さんのためだけでなく、夢のために頑張っているお笑い芸人たちのために、力をささげたいと思ったのです。

 

そのときの私は、日本語能力も特になく、日本の芸能界に対する知識もあまりありませんでした。家族や友人は、私はただの熱狂的なファンで、きっとすぐに諦めるだろうと思っていました。ところが、わたしはこの目標に向かって本気で人生プランを立てていました。大学は日本語学科を専攻し、日本へ行く資金を貯めるために、アルバイトも始めました。それと同時に、毎年日本へ行って、淳さんの収録やイベントにも参加していました。これは自分の趣味とストレス解消のためですが…。淳さんはファンにとてもよくしてくれます。私のことを覚えてくれていて、いつも頑張るように励ましてくれました。卒業してから、私は台湾の日系企業に就職しましたが、日本へ行くための準備は続けていました。何年かして、会社でちょうど日本へ派遣する社員を募集することになったんです。私は迷わず立候補しました。面接のときも、正直に当時の上司に「私は吉本興業に入るために日本へ行きたいんです!お金がたまったら、すぐ辞めます」と伝えました。部屋を追い出されるかと思いきや、結果は意外にも、私が日本へ派遣されることに決まったのです。一年後、お金がたまったので、本当にその会社を辞めて吉本興業に入るための準備を始めました。前の会社には本当に感謝しています。当時の仲間は、今でも、私のことを応援してくれているし、私の夢を追う過程に参加できたことを光栄に思うとまで言ってくれています。

 

吉本興業はお笑いタレントのマネジメント以外にも、様々な事業をやっています。芸能界に関わる端から端までの仕事に関わっていると言ってもいいでしょう。テレビ、映画、ネット、商品に関わる企画や製作、それからお笑い芸人の劇場の経営もしています。芸人や業界人を育成する学校まであります。私は前の仕事を辞めてから、アルバイトしながら吉本興業が経営するYCC (Yoshimoto Creative College)に通い始めました。そこでは、芸能界に関する知識やテクニックを学び、一年後に吉本の入社試験を受けました。面接前に、淳さんから夢へ向かって迷わず前へ進め!という励ましの手紙を頂いたことを今でも覚えています。全身全霊で頑張りましたが、結果は一次面接で落ちてしまいました。その知らせをもらった夜は自分の未来を見失ってしまい、いくら泣いたかも覚えていません。

 

そして、台湾に帰る3日前のことでした。今でもはっきり覚えています。気持ちも、荷物もすっかり整理がついたわたしは台湾に帰って別の道を探そうと考えていました。その日はバイト仲間が送別会を開いてくれる予定でした。その日の午後、電話が鳴ったのです。吉本の人事の方からでした。今から二時間後にもう一度面接ができないかと聞かれ、私はもちろんすぐに「はい」と返事をしていました。全く面接にふさわしくない服装でオフィスの会議室に駆けつけたのですが、面接官は何と吉本興業の社長と取締役だったのです。それでも私は、台湾人なまりの日本語で、二人を相手に堂々と自分の夢と吉本に対する情熱を語りました。面接の後、社長は私の勇気を讃えてくださり、吉本に対する愛を感じたと言ってくださいました。そして、その場で合格のお返事をいただいたのです。私はこんなにもドラマチックに夢への第一歩を手にしたのです。涙を流しながら、社長と会長にお礼を言いました。その晩行われるはずだった送別会は、就職祝賀会となり、みんなを驚かせてしまいました。その日の晩、みんな、涙が止まらなかったのを覚えています。そして、それは決して別れの涙ではなく、うれし涙でした。

 

よしもと制作のいろいろ

Mayu

吉本に入社してから、私は映像制作セクションで番組制作、企画と進行の調整などを担当しています。時には撮影クルーとタレントさんのロケをセッティングしなければならず、同時進行で進めなければならないことがたくさんあって、とてもやりがいがある仕事だと感じています。日本の芸能界は上下関係はもちろん、暗黙のルールもたくさん存在する職場です。さらに、芸術家肌の方と一緒に仕事をするので、時間も不規則だし、勤務時間も長いです。たったひとつ、何かがうまくいかないだけで、歯車が狂い、現場の雰囲気に影響が出ます。番組制作という役割が外国人である私にとって有利なことは一つもなく、入社してすぐの頃は、現場のペースについていけず、先輩に怒られることもしょっちゅうでした。怒られたことで落ち込み、言葉も出ず、毎日夜中に家に帰ってはすぐに寝るという生活の繰り返しでした。それでも、同期や先輩たちに励まされ、いろいろなことがあるけれど、それもだれもが経験する試練なんだと考えるようになりました。そして淳さんのために頑張るんだという初心を思い出しました。身も心も疲れたとき、自分が作った番組をみると、ちょっと達成感が出て、もう少し頑張ってみようという気持ちになれました。

 

最近、吉本興業は海外事業に力を入れています。台湾と日本は文化的に近いところがあるので、台湾の芸能界との提携も多くなってきました。台湾人の私ももちろん、台湾関連の仕事を担当するようになりました。例えば、今年の3月オープンした沖縄おもろおばけ屋敷は、台湾観光客をターゲットにした那覇市の新しい施設です。そのこともあり、私が台湾のテレビの撮影クルーと同行することになり、その時には自分が実際に体験した映像で宣伝することもありました!(笑)また、半年前から「住みますアジア」というプロジェクトも始まりました。日本のお笑い芸人をいくつかの国に送り出し、現地に暮らしながら日本のお笑い文化を知ってもらうというのが目的です。台湾に派遣されることになったのは「漫才ボンボン」というコンビ。私は彼らを担当することになりました。芸人という仕事は魅力的に思えますが、実際1000組芸人がいたら、本当に芸人の仕事だけで生活できる芸人は1組いないかもしれません。彼らが異国で夢のために頑張る姿を見ると、自分のことと重なり、思わず応援したくなりました。吉本興業は、正直働くには本当に大変なところだと思います。それでも、自分の夢に向かって頑張る人がこんなにたくさん集まるのは吉本ならなのではないかと思っています。

 

台湾人や日本人と一緒に仕事をする経験を積んでいく中で、それぞれの違いも分かってきました。日本人は、事前計画がとても細かいです。事前にスケジュールをきっちり組んで、当日はその通りに行います。ただ、現場で何かトラブルが一つでも起きると、なかなかすぐに対応できません。一方、台湾人はすごく自由。事前計画もなく、現場での臨機応変がとても大事です。一番印象に残っているのは、台湾撮影クルーと日本でロケをする予定でしたが、ロケ地に着いたとたん、なぜかロケを急遽中止。それも、当時台湾で大人気だったブラックサンダ―を買いに行くためという…。スタジオでの撮影も全然違います。日本ではタレント中心で現場が回っていきます。何が何でもタレントさんのケアが最優先です。逆に、台湾ではすべてプロデューサーの方がリードしていきます。なので慣れるとすぐ、誰をよいしょすればいいのかわかるようになりました(笑)

 

これだけの違いがあると、日台の撮影チームが一緒に仕事をするとき、どれだけのカルチャーショックがあるか、想像に容易いでしょう。順調に仕事を進めるため、真ん中の立場にいる私は通訳以上に双方の緩和剤として調節役に回る必要がありました。結局はいつも板挟み状態でしたが、私にはぴったりの役割だと思うようになりました。もし一緒に仕事をすることを通じて、日本と台湾がお互いの仕事文化を尊重できるようになれば、それはそれでうれしいです。

 

夢の続き

今年の11月(2015年)、jealkbは台湾でライブを開催することになりました。会社でアピールし続けた結果、私が淳さんのファンであることが認知され、今回のライブもスタッフとしてかかわれることになりました。淳さんのことを知ったのが10年前、私は今回の仕事でその当時の夢を叶えたとも言えるでしょう。でも、ここにたどり着くまでの過程を美化することはできません。私はこの夢をかなえるために、多くのことを犠牲にしてきました。この業界では強いメンタルと柔軟性が必要で、外国人である私は、人の数倍の努力が必要です。去年、私は体を壊し、休養のため、一年近く休みを取りました。それに、結婚を考えていた彼氏とも別れてしまいました。なんで私はここまでいろんなものを犠牲にしなければならないんだろうと、考えてしまうこともよくありました(淳さんも結婚したし・・・)。でも、それは、今まで力になってくれた友達や、私のことを理解し、誇りに思ってくれた家族の気持ちに応えるためだったからだと思います。それと、私がここまで払ってきた代償のためかな!本当に大変だったけど、その分達成感も大きいです。そして、私にはさらに大きな目標があります。それは日本のお笑い文化を台湾の人々にもっと知ってもらうことです。この夢がある限り、これからも日本で頑張り続けます!

吉本興業 Mayu

※この記事は2015年10月のインタビューを元にして書かれた記事です。

 

 

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